今日は、
聖レオ の日。カトリック教徒は、聖人として様々な人を崇め、365日の1日1日に聖人の名前をあてがっているが、プロテスタント教徒は、聖人を崇めない。
そんなプロテスタント教徒にとって、なくてはならない人が生まれた日。
1483年11月10日、ドイツのアイスレーベンで生まれ、1546年2月18日、アイスレーベンで亡くなった
マルティン・ルター 。
誰もが知る、
宗教改革 の生みの親である。
ルターの薔薇。
喜びと平和を表す白いバラ、キリストの黒い十字架、キリスト教徒の赤いハート、聖霊を表す金色の炎、永遠を表す金色の輪、背景に青い天が描かれている。
彼は洗礼日が
トゥールのマルティヌス の日(11月11日)であったことにちなんで、マルティンと名付けられた。
---
トゥールのマルティヌスは、殉教をせずに列聖された初めての人物。
337年のある非常に寒い日、ローマ軍の兵士であったマルティヌスは、半裸で震えている物乞いに出会った。気の毒に思ったマルティヌスは、マントを2つに引き裂いて、半分を物乞いに与えた。翌日、このマントをまとったイエス・キリストが夢に現れた。マルティヌスは受洗し、軍を除隊し、伝道活動を積極的に行った。
---
聖マルティヌスを描いた
オークニグスブール城 の礼拝堂のステンドグラス。
司祭であり大学講師であったルターは、1517年10月、当時「城教会」と呼ばれていた小さな大学町の教会の北側に、1枚のポスターを貼り出した。(最初はラテン語、次にドイツ語で)
標題は、『贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論』(後に『95箇条の提題』と呼ばれた)。当時カトリック教会が発行していた「罪の償いを免じる文書(贖宥状)」を徹底的に批判し、議論しよう、というものだった。
「お金が箱の中でチャリンと鳴るや否や魂は天国へ飛び立つ」なんて嘘っぱち!
ルターが、箇条書きの文書を掲示した場所は、新設間もない小さな大学の広報掲示板だった。
ルターは、大学の正規の手続きに従って、正規の場所に、討論を呼びかけた文書を掲示したに過ぎなかった。
しかし、この文書が発端となって、
宗教改革 と呼ばれる運動が広まった。
アグノー教会の掲示板。
カトリック教会は、ルターを破門した。
ゲーテ 街道沿いにある、ヴァルトブルク城、別名「
待つ城 」。
ザクセン選帝侯フリードリヒ3世は、帝国追放を宣言されていたルターをこの城に保護した。
城外に出ることができない中で、ルターは、ヘブライ語、ギリシャ語から
新約聖書のドイツ語訳 を完成し、1522年に印刷した。
グーテンベルグの活版印刷術 が実用化されていたので、この聖書は、世界中に広まった。
ルターがしたことは、聖書を、ほんのごく一部の人しか読めない言語ではなく、みんなが話しているドイツ語にすることだった。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしよう と呼びかけた。
人々は、聖書を読むために
努力して勉強した 。
ヨーロッパの他の国でもそうなのだが、宗教改革前、人々は、その国の言葉で話すことはできても、読み書きはさっぱりだった。宗教改革の後、ヨーロッパの識字率は、ぐんと上がった。
ルターの思想は、聖書やビラ、讃美歌によって広まった。(教会に、みんなで歌えるドイツ語の讃美歌を取り入れたのも、ルター。それまではラテン語だけだった)
その独自の思想の裏には、長い長い時間をかけて先人たちが積み上げてきたもの、ルター個人の苦しみと努力があった。
今の時代に、必要なのは、
プロパガンダでも、イデオロギーでも、国民的英雄でもない 。
自分を見失いそうになるとき、私は、夫のおばあちゃんの言葉を思い出す。
今の私ができること。
それは、今まで自分が通ってきた道を振り返ること。
「
Si dans la vie, tu ne sais plus qui tu es ni où tu vas, Retourne-toi, et regarde d’où tu viens. 」
11月10日又は11日に、アルザスの一部やドイツで、毎年祝われる聖マルティヌスのお祭り。
第一次世界大戦休戦記念日と重なってしまい影が薄れているが、聖マルティヌスのお祭りを、もっとフランスで祝ったらいいのに…。ハロウィンより、ずっと素朴で面白い。
本来、子供たちは、自分で作ったランタン(提灯のようなもの)を提げ、歌を歌いながら、家々を周る。
北海道の「ろうそく出せ」にそっくりだったりして。
スポンサーサイト
コメント