1875年1月14日。
当時ドイツ領だったアルザスのカイゼルスベルク(Kaysersberg)に生まれた
アルベルト・シュヴァイツァー。

カイゼルスベルグのアルベルト・シュヴァイツァーの生家
生後まもなくして、グンスバー(Gunsbach)の町に移り、
社会的地位の高かった
牧師の子として、比較的裕福な家庭で育つ。
彼の一生を決定付けた出来事として語られる話がある。
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春のある日。
アルベルトは、友達と、遊び道具のパチンコを作っていた。ゴム紐で小石を飛ばすおもちゃ。
出来上がると友達は、木の上の小鳥にねらいを定めた。
嫌々ながらも、アルベルトがパチンコを構えだした時、
カランコローン、教会の鐘の音が聞こえた。(打っちゃいかん、殺しちゃいかん)まるでそう言っているよう。
アルベルトは、小鳥に「にげろ!」と叫んだ。小鳥たちは一斉に空へ。
アルベルトの後ろから、友達の声が聞こえてきた。「なんだ、弱虫!」
2、3日後、村のガキ大将に「聞いた、聞いた、弱虫!」と、さんざんからかわれた。
アルベルトが「小鳥がかわいそうだったからだよ」と言っても聞いてくれない。
(もう我慢できない!)アルベルトは、ガキ大将の体にとびかかり、取っ組み合い。
なんとアルベルトの強いこと…。
組み敷かれたガキ大将は、くやしまぎれにこう言った。「俺だって、お前みたいに、しょっちゅう肉入りスープを食べていたら、負けやしないんだ」
ガキ大将の言葉は、アルベルトをはっとさせた。(そうか。どの子もみんな、僕よりずっと貧しいんだ)
(僕はいまに、貧しい人や困った人のためになる仕事をするんだ)
アルベルトは、夢中で勉強に取り組み始めた。
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7歳の頃からピアノを習い、9歳で既に教会のオルガンを弾いていた。
その後、多彩な能力を発揮し、当時ヴィルヘルム2世占領下の名門ストラスブール大学に入学。
その後、カントの思想を中心に
哲学博士、プロテスタント神学を中心に
神学博士を取得する。
牧師、
オルガニストを務める傍ら、ストラスブール大学神学科の講師となり、1902年~1912年にかけて、教鞭をとった。

21歳のとき、30歳までは学問と芸術のために生き、それからは人間に直接奉仕することを決意。
1905年、30歳から新たにストラスブール大学の
医学部に入学。神学科の講師でありながら、医学部の学生となった。
1912年、彼をずっと支えてきたエレーヌ・ブレスローと結婚。
翌年、
38歳で、医師資格を取得し、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネへ、夫婦共に旅立つ。
41歳のとき、「
生命への畏敬」という概念にたどり着き、後の世界平和への訴えとなった。

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わたしたちは、
生きようとする生命に囲まれた、
生きようとする生命である。
倫理とは生命に対する畏敬の念以外の何ものでもない。
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本国フランスのアルザスが、ドイツとフランスの領有争いの紛争地となっていた、激動の時代を生きたシュヴァイツァー博士。
医療活動も第一次世界大戦などによって、中断されたり、捕虜となったりすることもあった。
1918年、フランスによるアルザス併合の際にフランス国籍を取得している。
病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行いながら、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを繰り返した。
忙しい!
その献身的な医療奉仕活動と反核運動が評価され、1952年度の
ノーベル平和賞を受賞。
1965年に90歳で死去し、ランバレネに埋葬。
多才な偉人の誕生日が今日だった。
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2018/01/29 編集