今日は、
マルティン・ルター の生誕日。
宗教改革初期の指導者といえば、
マルティン・ルター 、
フルドリッヒ・ツヴィングリ が挙げられるのだが、彼等の間を取り持つのに奔走したアルザス人を今日は紹介したい。
1491年11月11日にアルザスのセレスタで生まれた
マルティン・ブツァー である。
左がマルティン・ルター、中央がマルティン・ブツァー、右がフルドリッヒ・ツヴィングリ。
ブツァーは、幼少期、青年期をセレスタで過ごし、ラテン語学校、ドミニコ会修道院で学んだ。
セレスタは、
人文主義 の町。
その後、ドイツのハイデルベルグへと移り、そこで、1518年、マルティン・ルターの有名な演説に立ち会う。
(1517年にルターが『95箇条の提題』を掲げたすぐ翌年のこと)
ルターと直接会い、話し、同じ時間を共有することで、ブツァ―もまた熱心なプロテスタントとなった。
ルターの聖書。
1522年、プロテスタントの中でも、他に先んじて、結婚。
今からちょうど
500年前 の
1523 年、ストラスブールに移り住んだ。
いち早くプロテスタントの教義を導入したストラスブールのタンプル・ナフ教会。
ストラスブールは、1529年~1679年の
ちょうど150年間 、
プロテスタントの町 になった。
マルティン・ブツァーは、生涯にわたって、「
平和、和解、隣人愛、倫理の重要性 」を説き続けた。
戦争、紛争、憎しみ、不道徳がはびこる時代に、必要な考え方!
カトリックから、いろんな教会が生まれたように、プロテスタントからも、いろんな教派が生まれるのだが、
マルティン・ブツァーは、宗教改革の初期に、衝突し合う人たちを仲介し、
教会を一つに しようと、東奔西走した。(特に、ドイツ、スイスで。)
1537年、マルティン・ブツァーは、教育学者の
ジャン・シュトゥルム をストラスブールに呼ぶ。
翌年、ジャンは、プロテスタントのギムナジウムをストラスブールに設立。
後に
ストラスブール大学 となる学校は、この時代に生まれた。
最近のストラスブールは、警察が目に付くなあ…。ギムナジウムの目の前に停まってる。
ちなみにストラスブール大学のプロテスタント神学部は、
フランスで唯一プロテスタントの学位が取得できる 大学。
今でも、世界中から、研究者や牧師が訪れている。
1538年から、3年間、マルティン・ブツァーは、ストラスブールに滞在していた
ジャン・カルヴァン を直接教育した。
カルヴァンは、そのすぐ後にスイスのジュネーヴに戻り、
改革派教会(カルヴァン主義) を率いている。
実は、カルヴァン派に、アルザス人が与えた影響は計り知れないのだ。
ふつう、牧師は、説教や手紙をコンパクトに凝縮してまとめるものだが、マルティン・ブツァーの説教や手紙は、とにかく長くて遅いことで有名であった。
たくさんの著書や手紙を残しているが、ルター派やカルヴァン派のように有名にはならなかった。
マルティン・ブツァーの書いたわかりにくい手紙を、今も必死に解読しているアルザス人。
ブツァ―は、晩年、イギリスに渡り、改革に関わった。
有名なヨーロッパの宗教改革者の中で、唯一イギリスに渡った人。
勝手にマルティン・ブツァーをアニメのキャラクターに例えると、『
ドラゴンボール 』の
クリリン 的な存在だったと思う。
ところで、だいぶ思い切ってかいつまんで言うと、
イエス・キリスト は、
孫悟空 的な存在。
彼は、みんなの心の支えで、彼がいると、場が盛り上がる。
2000年以上にわたって、次から次へと様々な敵が現れているが、最後に勝つのは、彼。
最後に愛は勝つ by
KAN 『ドラゴンボールZ』の最後までしか私は見ていないので、その後どうなったかは知らないけど…。
あ、でも、イエス・キリストは神だからね。
ややこし。
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