今年は、侘び茶の創始者、村田珠光の生誕
600周年の年である。
茶の湯は、
村田珠光によって基礎が作られ、
武野紹鴎を経て、
千利休によって確立された。
昨年は、千利休の生誕
500周年の年であったため、日本で様々なイベントが開催され、彼の功績が紹介された。
今日は、茶の湯の本の引用に、勝手に説明を加えて、キリスト教を語りたい。
茶の湯も
キリスト教も、こんな素人ブログの一記事で語れるほど単純なものではないと思うが、いつもどおり勝手にまとめた。
主に矢部良明著『茶の湯の祖、珠光』と高橋敏夫著『茶の湯の心で聖書を読めば』を参考にした。

村田珠光が喫茶と出会った
15世紀半ばは、庶民のための茶屋で売られる一服一銭の茶、遊興の茶盛、豪華な金品が飛び交う闘茶、風呂の興行である淋汗(りんかん)の茶会など、様々な喫茶があった。
珠光は、世俗の喫茶から、きっぱりと茶の湯を切り離した達意の茶人だった。
ルターは、ローマ・カトリック教会から、きっぱりとプロテスタント教会を切り離した達意の宗教者だった。
華やかで魅力的であるという、ふつうの人々を引き付ける美の論理に対して、珠光は「冷・凍・寂・枯」の茶の湯のよさを謳った。平等と寛容の精神性を反映した。光り輝くばかりの神々しい茶道具ではなく、地味に徹した奥床しい茶道具の中に、1人1人が美を見つけ出すようになった。

煌びやかな装飾品が多いカトリック教会に対して、プロテスタント教会は、簡素で地味になった。カトリックが権威付けされた価値体系を重んじたのに対して、プロテスタントは1人1人の信仰を尊重するようになった。
珠光の茶の湯では、喫茶自身が主たる目的ではなくなり、喫茶を契機にして、それを演出するために仕組まれたもろもろの茶道具、茶室、庭周り、料理、装束などを凝らして、常識とは違った美的世界を樹立することに主眼が置かれた。自らを律することを自ら養った。

プロテスタントでは、儀式で神を「感じる」ことが主たる目的ではなくなり、各人が聖書を読んで神について「考える」ことに主眼が置かれるようになった。
珠光の時代から約100年後。
16世紀半ば、日本にキリスト教が伝わった。
千利休が茶の湯を完成するまでの過程には、宣教師、キリシタンの商人や大名、キリシタンになった妻の影響があった。
茶道の作法の一部がキリスト教会の聖餐に似ていたり、茶の湯で「市中の山居」を求めるのが、キリスト教で「荒野に神のことば」を求めるのと似ていたりするのは、偶然ではない。
侘び茶は、「禅」の精神を取り入れたとされるが、「キリスト教」の精神も関わっている。

千利休の時代には、茶の湯が政治に利用されるようになって、茶道具が土地や家と同じような値段にまでなったこともあった。
茶室のにじり口は、聖書の1節から生まれたと言われている。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイによる福音書7章13節)

狭い門から入るためには、全ての持ち物を捨てなければならない。
身分という持ち物も、財産や刀という持ち物も、傲慢という持ち物も。
茶の湯が伝え、日本人が長い間、実践してきた
謙虚のエスプリ。
豪華絢爛な教会や儀式を見て、キリスト教を「謙虚」とは正反対の宗教だと勘違いしている人も多いかもしれないが、教会は神のちからを象徴する場所だからイイの!今まで守ってきたものは、これからも守って。

敬虔なキリスト教信者1人1人は、謙虚であることを目指す。
富を築くこと自体は悪ではない。
家族を養うことができる。
雇用を生み、地域に貢献することができる。
お金があれば、困っている人に寄付することもできる。
世界には、寄付したことをいちいち宣伝しないで、ひっそりと暮らしている人も実はたくさんいる。

16世紀後半、日本で建てられる新しい教会には必ず茶室が設けられていた。
フランスにはフランスの、ドイツにはドイツの教会があるように、その国にはその国の教会があっていい。
茶の湯では、亭主と客は、静寂を通して、深い心の交流を行う。
「目に見えないものが大切」と説くキリスト教でも、静寂を通して、あわれみ深く生きることを伝えられると思う。

いつか日本らしい教会が見てみたい…。
11月は、お茶のお正月。
師走をひかえて、どこもかしこも大忙し。
「忙しい」という漢字は、「心」を「なくす」と書く。

そんなときこそ、お茶をゆっくり飲む時間を大切にしたい。
千利休は、「
茶道とは何か」という質問に対して、
「
渇きを癒すだけのものですよ」と答えたという。
もし、千利休の妻が「
キリスト教とは何か」と聞かれていたら、こう答えていたのではないだろうか。
「
隣の人とお茶を飲むだけのものですよ」

解釈し過ぎか。
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