大聖堂を左手に見て、右側奥に見えるのは、
パレ・ロアン/ロアン宮殿(Palais Rohan)。

ルイ14世付きの建築家で、
ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂を手がけたことでも知られる
ロベール・ド・コットが設計し、1732年から1742年にかけて建設された。
緩やかに傾斜する地面の上に建てられたとは思えないほど、見事なシンメトリーの建物。
目の錯覚で、上下左右対称に、実際よりも大きく見えるように造られている。
白い石や煉瓦の少ないこのアルザスの地にもある
黄色や赤色の砂岩を持ち寄り、
パリやヴェルサイユの建物に似せて建てられた。
以降、この宮殿を真似て、ストラスブールにパリ様式の建物が次々と姿を表す。
このロアン宮殿建設にまつわるエピソードや背景は、とても面白い。
1681年、ストラスブールを併合したルイ14世。だが、それまで実質ドイツであった(ドイツ語を話し、プロテスタントの町であった)ストラスブールを完全に統治するのは、さすがの彼でも難しく、心もとなさを感じていた。そこで、1704年、パリの名門貴族であるロアン家から、ストラスブールの枢機卿(カトリック教会で、ローマ教皇に次ぐ高位聖職者)を輩出することにした。初代大司教は、前名
アルマン・ガストン。
ルイ14世の実子であったと伝えられている。

要は、自分の息子にこの東の重要都市の統率を託し、
神聖ローマ時代を象徴する建物(大聖堂)のすぐ横に、パリの職人が手がけた
フランス権力を象徴する建物を置き、堂々と住まわせることにしたのである。
以降、フランス革命までの85年間、ストラスブール枢機卿の地位は、ロアン家の4人が世襲していくこととなる。王権と固く結びついたカトリック教会権力が、民衆の日常生活に介入、浸透していくのである。
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