目を覆いたくなるほどの痛ましい十字架上のキリスト。
以下、宮下規久朗著『知っておきたい世界の名画』の抜粋に説明を加えたい。

痙攣した両手や両足、色の変わり果てた肌には無数の棘が刺さり、両手両足に打ち付けられた釘からは血が滴り落ちる。その傍らには、気を失う聖母マリアとそれを気遣う弟子ヨハネ、大きく身を反らして手を合わせるマグダラのマリアがいる。十字架の反対側には、キリストを指さす洗礼者ヨハネがおり、その足元には血を流す犠牲の子羊がいる。(洗礼者ヨハネはキリストより先に斬首されたので、通常、磔刑の場面に洗礼者ヨハネが登場することはない。)彼の右腕の上に、「彼は栄え、私は滅びる」という文字が書かれており、洗礼者ヨハネの表す
旧約の世界が、キリストの新約の世界にとって代わったことを示している。
コルマールの
ウンターリンデン美術館にある、16世紀以降、多くの人々を魅了し続けている祭壇画だ。

もとはコルマールの南方約20kmの
イッセンハイムの町にある 聖アントニウス会修道院付属施療院の礼拝堂にあった祭壇画で、麦角菌によって手足が腐って死に至る不治の病にかかった患者たちのために設置されていた。
祭壇画は3層に分かれ、衝立と開閉式の翼に描かれた複数のシーンから構成されている。

平日は祭壇画を閉じた状態のこの第一面が見せられ、麦角中毒患者たちは毎日その前で祈っていた。キリストの姿が痛ましければ痛ましいほど、彼らの苦痛を担ってくれると思われたのであろう。
十字架上で血を流して死ぬことで人類の罪を贖った神の子キリスト。目をそむけたくなるほどのむごたらしいキリストの体ゆえに、
犠牲の尊さと偉大さを感じさせ、もっとも
静穏な祈りと救済の世界に通じている。
磔刑図の左側には、疫病の守護聖人である聖セバスティアヌスが、右側には、壊疽性麦角中毒の守護聖人であり、この修道院の守護聖人である聖アントニウスが、下部には、キリストの埋葬が描かれている。
日曜や祭日になると祭壇画の扉が開けられて、 第二面が現れた。
第二面は、左から順に、受胎告知(マリアと天使ガブリエル)、天使の演奏(マリアと天使たち)、キリストの生誕(イエスを抱くマリア)、キリストの復活が描かれている。 これらはいずれも第一面とは打って変わって明るい。 患者に
苦しみの後に来る救いを実感させ勇気づける意図があったのであろう。

第三面は、中央に聖アントニウス、左に聖アウグスティヌス(四大ラテン教父の一人)、 右に聖ヒエロニムス(四大ラテン教父の一人)の木彫が、下部にキリストと12使徒の木彫が施され、扉の左に聖アントニウスの聖パウルス(最初の隠修士)訪問が、右に聖アントニウスの誘惑が描かれている。

悪魔に苛まれる聖アントニウスが、麦角中毒患者の苦しみを代表した『聖アントニウスの誘惑』。

主の祈りの中で「
私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」と祈るとき、私はよくこの絵を思い出す。
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