カトリックとプロテスタントの間で

今日は、アルザスにとって、狂乱怒涛の時代であった17~18世紀にスポットをあてたい。
魔女の目

世界の歴史は、の歴史である。
いつの時代も、人間たちは戦いを繰り返してきた。
紀元後に、最も過酷だった時代を挙げるとしたら、いつの時代だろう?
日本の戦国時代にあたる時代をヨーロッパで挙げるとしたら…
それは、三十年戦争のあった17世紀である。
(もちろん兵器の開発によって、犠牲者の数は、第一次、第二次世界大戦で格段に増えるのだが。)

17世紀のヨーロッパは、天候が不順で、凶作・飢饉、感染症(ペスト)の流行、戦争やインフレーションなど、混乱と不安にあふれていた

アルザスの廃墟
歴史は、繰り返すのか。
以下、WEBサイト『みんなの世界史』を参考に、見たい。

戦争のきっかけを作ったのは、オーストリアの属領であった新教国ベーメン王国。
1618年、ハプルブルク家の神聖ローマ帝国が、ベーメン王国に、ローマ=カトリックの信仰を押し付ける政策をとったことに対し、新教徒(プロテスタント)が立ち上がった。
ベーメンでの動きに、プロテスタントの立場でベーメン側を応援する諸国と、ローマ=カトリックの立場でハプスブルク家側を応援する諸国が加勢。
プロテスタント教会

対立の争点は当初、「新教(プロテスタント)を採用するか、旧教(カトリック)を採用するか」という宗教的なものだったが、「この戦争を口実に領土を拡張させてやろう」という立場からの参戦も相次いだ。
戦いの勢いが北のバルト海に達すると、「バルト海はスウェーデンの海だ」と、スウェーデン王国が参戦。
その後、新教国のデンマーク王国が参戦…。
プロテスタント教会
さらに、ルイ13世の治めるフランス王国が、まさかの新教国側で参戦する!
フランスは旧教国なんだから、旧教国の神聖ローマ帝国の側で参戦…というわけにはならなかった。
神聖ローマ帝国もこれにはびっくり。

もはや宗派の違いがどうという時代は終わり、結局、フランス王家とハプスブルク家の間の 因縁の戦いに持ち込まれた。
アルザスは、三十戦争の主戦場となった。
アルザスの城
30年にわたって続いた戦争は、1648年に終止符が打たれる。

プロテスタント教徒が多かったアルザス地方は、
どうなったかというと…
フランスに組み込まれ、カトリック政策を押し付けられることとなった。
ストラスブールを歩く・17―王から息子へ

プロテスタントの礼拝が行われていたアルザスの教会では、17世紀以降、カトリックのミサを行わなければいけなくなった。プロテスタントの礼拝とカトリックのミサをどちらも行う教会もあり、管理が難しくなった。
(「この教会の修理費は、どっちが出すの?」とかでも、もめた)
ユナヴィール
写真は、いざというとき逃げ込めるようにと要塞化されたユナヴィールの教会。現在でもカトリック、プロテスタント両方に利用されている。

そんなアルザス地方で、1777年、異色の葬儀が行われた。
ドイツで生まれ、フランス大元帥まで上りつめたエルマン・モーリス・ド・サックスの葬儀である。
彼の父は、ザクセン選帝侯(兼ポーランド王)であったアウグスト2世。(ザクセンの都ドレスデンをベルサイユに次ぐ美しい街に変えようとした神聖ローマ帝国の選帝侯)。
聖ペテロ教会
モーリスの両親は、カトリックであったが、モーリス自身は、プロテスタントであった。

モーリス元帥は、数々の戦いに参加し、1750年11月に病気で亡くなった。
当時のフランス国王ルイ15世は、宗教上の理由から、歴代の君主が眠るカトリックのサン=ドニ大聖堂には、彼を埋葬できなかった。
そこで、アルザスのプロテスタント教会、聖トマス教会を埋葬場所として選ぶ。
モーリス元帥の功績を称えるため、パリ近郊の彫刻家に、荘厳な墓標の制作を命じるのであった。
聖トマス教会
その構想・制作には、20年以上を要し、ようやく1777年8月に葬儀が執り行われることとなる。(その前にルイ15世の方が、亡くなってしまったけど…)
この葬儀には、各界の文民、軍人の権威が参加し、プロテスタントが世の中に再認識される機会となった。

聖トマス教会
ストラスブールの聖トマス教会。モーリスの横には、モーリスが倒した国々を象徴する動物が彫り込まれている。オーストリアを象徴する鷲、オランダを象徴する獅子、イギリスを象徴する豹。

ザクセン選帝侯と聞いて、あの超有名人が思い浮かんだ?→次回へ続く
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

ぶるぐれんとうざき

あるざすかいのブログへようこそ !
フランスの東端アルザス地方の伝統と文化を伝えるため、毎日の生活や読みものから得た情報を独自の視点でお伝えしていきます。

ブログ内検索

QRコード

QR