謹んで新年のお慶びを申し上げます。
1月1日、神道では
歳神(としがみ)様を、カトリックでは
聖マリアをおまつりする。
こんな特別な日なので、今日は「魔女」について考えたい。

ニーデルマンステールの聖マリア修道院。
「魔女」という言葉が日本に登場したのは、
ゲーテの『ファウスト』が翻訳されたとき。そのおどろおどろしい世界は畏れられたもの。
以降、魔法使いが登場するマンガ、アニメ、ドラマ、映画が無数に作られ、その垣根は取り払われた。
しかし、中世時代のヨーロッパにおいて、「
魔女狩り(魔男狩り)」(大半は女性だったが、男性もいた)が実際に存在したことを忘れてはならない。
アルザスでも「魔女狩り」で、多くの男女が犠牲になった。

タンの魔女の目。
魔女狩りのピークは、
宗教改革後に訪れる。
16世紀半ば、宗教改革とそれに対するカトリックの政策によって、キリスト教の教義や信仰は、先鋭化していった。それまでなあなあにされてきた土着の文化や他の宗教を認める余裕がなくなり、カトリック以外の人がキリスト教信仰の敵とみなされ、弾圧されていくのだ。

ボーレンベルグの丘。昔、この丘の上に魔女たちが集まっていたとされる。
裁かれたのは、カトリックにとっての異教徒(プロテスタント教徒やユダヤ教徒なども含む)で、村の貧しい下層階級、高齢者、病人などが中心であった。
雹(ひょう)、疫病、飢饉などが、全て魔女のせいにされ、とんでもない理由で裁かれることもあった。「ホクロがあるから、悪魔の使いだ!」とか…。子供が裁かれることもあった。

ルーファックの魔女の塔。実際に、多くの魔女(とみなされた者)たちが監禁された。

魔女狩りは、遠い昔のことではない。
ここ50年くらいだけを見ても、そして今も、同じような体制は世界中で存在している。
「魔女」について、話を戻そう。
20世紀、宮崎駿監督の映画『
魔女の宅急便』によって、魔女のネガティブなイメージは払拭された。
ここからは、明るい気持ちで読んでほしい。
今年88歳になった1935年
1月1日生まれの『魔女の宅急便』の原作者、角野栄子さんの話から。
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たった
13歳の女の子が心を決め、見知らぬ町で生きていこうとする。鳥と同じくらいの高さで飛ぶと、何が見えるだろう。町の人とどう心を通わせていくのだろう。
原作では、キキはこう言う。「魔女は、ほうきにばかり乗って飛んでちゃいけない……ときどき歩いた方がいいんじゃない……おたがいわかりあえるし……」
飛べるというささやかな魔法で、懸命に生きていこうとするキキを見ることにより、町の人たちは自分たちの生きている世界を初めて見直し始める。
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アルザス名物プレッツェルの看板を掲げた、おソノさんの店。
映画の最後のメッセージは、「
落ち込むこともあるけれど、わたしこの町が好き」
人は誰でも、自分の町、自分の場所を見つけて生きていかなければならない。
キキは、大きな挫折を経験した後、友達のために、再び空を飛んだ。

魔女狩りのような悲しい過去を繰り返さないために私たちができること。
その鍵は、日々の暮らしの中にある。
この音楽を聴きながら、考えたい。
アルザスの景色の中に魔女や魔男が現れた、宮崎駿監督作『ハウルの動く城』。そのテーマ曲、『人生のメリーゴーランド』。
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